雨の降る音と雷の所為で目が覚めた。
最初の頃は小雨程度だったのに、時間と共に降る量が増え、今では土砂降り。
しかもいつの間にか雷まで鳴りだしているから、煩くて中々寝付けない。
雨も雷も嫌いだ。特に夜の雨と雷は、思い出したくもない思い出を呼び起こす。
とても嫌な思い出。否。記憶というべきか。あれは、思い出としてとっておくようなものではない。
忌々しい、思い出したくない過去の出来事。それを思い出すから、あたしは夜の雨と雷は嫌いだ。


コンコンコン


控えめなノックがする。
あたしはそのノックをした主が誰なのかわかる。
今現在この家に住んでいるは、あたしを含めて3人しかいない。
残りの2人の内、1人はあたしの叔母であり、あたしの通う白百合で教師を務める美亜だ。
でも、その人は時間的――深夜の1時過ぎからみて、もう眠っていると思った方がいい。
だから、扉をノックしたのは1人しかいない。その人物は、あたし以上に夜の雨と雷が苦手なのだ。
たぶん雨と雷が怖くなって、あたしのところへ来たのだろう。

「美穂。入ってきていいよ」

あたしはその人――妹の美穂を呼ぶ。
すると扉がゆっくりと開き、開いた隙間から美穂がちょこんと顔を覗かせる。

「お、お姉ちゃん」

弱々しく、怯えた様子で美穂があたしの事を呼ぶ。
あたしはそんな美穂に、出来るだけ優しく微笑んで「おいで」と言った。
美穂はその言葉を聞くと、小走りで寄ってきてあたしの胸に抱きついた。

「怖いの?」

「……うん」

「だったら、どうしてもっと早く来なかったの?」

雨が降っていたのは随分前からだ。
だけど雷が鳴りはじめてからまだ1時間は経っていないけど、30分は過ぎている。
美穂はあたし以上に夜の雨と雷が苦手。特に雷は、ある出来事の所為で余計に苦手意識が強くなった。
だから今日みたいに雷が鳴る日は、怖くなって、あたしの部屋に来て一緒のベッドに寝ていた。
雷が鳴る度に怯えて、あたしに縋り付いてくる美穂を優しく、護るように抱きしめながら。
あたしは美穂の姉。妹である美穂を護るのは当然の事。怖がっている美穂を見捨てる訳がない。
それはあたし、『相沢美奈』という人格が出来た時から、胸の中に生まれた1つの決意。
その決意の元、あたしは美穂が生まれた時から今という時まで、彼女の事を護り続けたてきた。
だから雷が鳴り止むまで、美穂が安心して眠るまで、あたしは彼女の事を抱きしめてきた。
それなのに今日は来なかった。来た事は来たけど、雷が鳴りだしてすぐではなかった。
その事を尋ねると、美穂は小さな声で言った。

「だって………お姉ちゃんに、迷惑かけたくなかったから」

それは、雨や雷の音に掻き消されてしまいそうな程小さな声だった。
でも、あたしは美穂の声が、美穂の本音がキチンと聞こえた。

美穂は困っている人がいると、損得を全く考えず手助けをする。
根が純粋で優しいから、困っている人を放って置けない。それが美穂のいいところ。
でも、逆に自分が困っていると、人――特にあたしに遠慮して全部1人で抱え込んでしまう。
それが美穂の悪いところ。美穂は自分より他人を優先する。そんな長所の所為で損な短所が生まれる。

「別に、そんな事気にしなくていいのに。
 言ったよね。美穂を護るって。なのに美穂の事が迷惑だなんて思う訳がないでしょ?」

そして姉であるわたしも美穂と同じだ。
ただ、あたしの場合は『人が』ではなく『美穂が』だけど。
あたしにとって美穂は世界で一番大切な存在。何よりも掛け替えのない宝物。
心が純粋過ぎるから、美穂はちょっとした事で簡単に傷つき落ち込みやすい。
性格的にも寂しがり屋で泣き虫なところがあり、よく不安げに怯えている時がある。
あたしは、そんな美穂の事を今までずっと、優しく温かく見守り続けてきた。
美穂には辛い思いも悲しい思いもさせたくない。穏やかで幸せな一生を送って欲しい。そう思っている。
過保護に思われるかもしれないけど、あたしは美穂が幸せならそれでいいのだ。

「あたしは美穂の事が大好きだから」

「……お姉ちゃん」

「美穂。あたし達は姉妹でしょ?
 妹はお姉ちゃんにいっぱい甘えて、お姉ちゃんは妹をいっぱい甘やかすものなの。
 だから遠慮なんていらないよ。それにあたし、甘えてくる美穂の事が可愛くて一番大好きなんだ」

あたしは美穂の身体をギュッと抱きしめる。
細く小さな、そして柔らかい美穂の身体はあたしの腕の中にすっぽりと納まった。
あたしと美穂との身長差は20センチもあり、ちょうど撫でやすい位置に頭がくる。
その所為か、美穂の頭を撫でるのがあたしの癖になっていたりする。
撫でられている側である美穂は、扱いが子供っぽくて恥ずかしいと言うけど、嫌ではないらしい。
だからあたしは、普段のように美穂のサラサラした金色の髪を撫でながら言った。

「怖いんでしょ?
 夜の雨と雷が。あの時の事を思い出しそうで」

「……うん」

「だったら一緒に寝よっか。
 正直、あたしもあまり夜の雨と雷は好きじゃないんだ」

夜の雨と雷は、あたし達姉妹にとって最も思い出したくない記憶を思い出させる。
決して癒える事のない深い心の傷。決して消える事のないトラウマをだ。
だから、あたし達は夜の雨と雷が嫌い、苦手だ。ある種の恐怖を感じている。
そしてその恐怖を紛らすように、一緒のベッドで寝る事が多い。お互いに慰め合っているのだ。



















ユメノオワリ






















1年程前の事だ。
わたしは妹姫市にある白百合女学園に通う高校2年生。
美穂は、あたしと同じ学校に通う事を目標にする中学3年生だった。
そしてこの頃のあたし達は、今みたいに両親と離れて暮らしていなかった。

「美穂、調子はどう?」

「はぅ〜……全然ダメぇ……」

あたしは白百合の入試問題と睨み合っている美穂の様子を伺う。
するとどうやら美穂には問題が難しいのか、そんな弱音を吐いている。
ちなみにその過去問は、あたしが2年前の入試の時に使っていたもの。
今年度の問題に比べれば多少違うがあるとだろうけど、問題の傾向は変わっていないはず。

「だから言ったでしょ?
 3年生になったばかりなんだから、入試問題が解ける訳ないって。
 幾ら白百合は基礎ができれば解ける問題を出してくるからって、3年の基礎が判らないと解けないよ」

白百合は、明治の文明開化の折に造られた旧妹姫市にある古い学校。
旧妹姫市自体が、ヨーロッパの文化を取り入れた造りになっている所為で、
同時期に建てられた白百合女学園の方もヨーロッパにあるような古い洋館チックな造り。
何でもヨーロッパの学問を取り入れる為に建てられた、なんて話を聞くけど、今では普通の女子高。
限られた階級の子供しか通えなかった昔とは違い、平成の今では学力があれば誰でも入学は可能。
ただ、そういった昔の名残があるのか、学校内の風紀はあまり乱れていないし、学力も全体的に高い。
後、フランスに姉妹校があって、毎年3年生の中から5人程留学できるシステムがある。

歴史があり、風紀は乱れておらず全体的に学力も高い。
おまけに成績優秀者――ただし5人まで――は無条件でフランスに留学ができる。
そんな好条件が揃っているから人気が高く、都心から離れているのに他県からの受験者は多い。
幾ら入試は中学までの基礎をしっかり勉強すれば点は取れるとはいえ、倍率は高いのだ。

「はぅ〜。だって、美穂、鞠絵ちゃんや晶ちゃんみたいに成績よくないもん。
 3人で一緒に白百合行きたいのに、2人は合格して美穂だけ落ちるなんて絶対嫌」

泣きそうな声で言う2人は、美穂の幼馴染。
鞠絵ちゃんとは幼稚園の頃から、晶ちゃんとは小学校に入ってからの仲で、美穂の一番の親友。
2人の成績は、美穂の言う通り上位の方。ちなみに美穂は中の上といったところで、
白百合入学確実な2人とは違い、油断して成績を落とせば、入試まで落ちる恐れがある。
もしも美穂が落ちてしまうと、仲のいい2人とは離れる事になる。確かにそれは嫌だろう。でも――

「その気持ちはわかるよ、美穂。
 あたしだって仲のいい友達――まぁ、咲耶なんだけど、やっぱり離れるのは嫌」

『出会いがあれば別れがある』と、人は云う。
全てには『はじまり』の瞬間に『終わり』が内包されている。
永遠なんてない。それはあたしは愚か、世界中の誰だってわかっている事。
だけど、誰だって、自分の親しい人や大切な人と離れるのは嫌に決まっている。
それが家族でも恋人でも、子供の頃からの幼馴染でも全て同じ。勿論、姉妹だって。
親しければ親しい程、大切ならば大切な程、その人と別れるのは嫌に決まっている。
だから美穂の気持ちはわかる。大切な親友と離れたくないから勉強を頑張る。
その意思は間違っていない。間違っていないけど――

「でも、焦ったりして先に進もうとすると、絶対途中で躓く事になるよ?
 特に美穂の苦手な数学は、最初の頃に習う公式や基礎が理解できていないと、
 後の方で習う公式とか問題が解けなくなる、って事だってあるんだからね」

美穂はついこの間中学3年になったばかり。
授業だってあまり進んでいない。それなのに美穂はいきなり入試問題に挑んだのだ。
今まで習ったところの復習ならいいとしても、これでは無謀な挑戦以外の何ものでもない。
鞠絵ちゃんと晶ちゃんの2人と離れたくない故に、焦って先に進んで、そして躓いている。
その事を注意すると、美穂は口癖の「はぅ〜」なんて、今にも泣き出しそうな声を漏らした。

「だから、まずは今まで習ったところの復習からはじめなさい。
 先へ進むのはその後。わからないところがあれば、あたしが教えてあげるから、ね?」

「……うん」

「うん。わかればよろしい。
 それじゃ、今日はもう遅いから休みなさい」

時計を見ると、針は深夜の1時を少し過ぎた時刻を刺していた。
明日――日付が変わっているから実際は今日になるんだけど――は、平日で授業がある。
時間的にみて、そろそろ休まないと朝起きるのが辛くなるし、眠気が取れないだろう。
加えて夜更かしは健康とお肌に悪い。しかも眠気を堪えて勉強をしても、内容が頭に入らない。
だからテストや受験の為の勉強とはいえ、夜更かしはしないようがいい。当然、徹夜なんて以ての外。
その事を美穂だってわかっているはずだから、彼女は素直に「は〜い」と返事をする。
ただ、自分の部屋に戻ろうとするあたしの事を、何か言いたげな表情でじっと見つめている。
美穂がそういう表情をする時は、大抵何かあたしにお願いをしたい時。
もう少し詳しく言うと、あたしに遠慮して言い辛そうな時か、恥ずかしくて言い辛い時なのだ。
あたしは、そんな美穂に笑みを浮かべながら「どうしたの?」と尋ねた。
すると、美穂は少し顔を赤くして、恥ずかしそうに言った。

「あ、あのね……お姉ちゃん。
 美穂、今日はお姉ちゃんと一緒に寝たいの………ダメ、かな?」

美穂は顔を赤くしたまま、上目遣いであたしの事をじっと見つめる。
何度も見た事のある、美穂のお願いの仕草。見慣れているけど、可愛いものは可愛い。

「あはっ♪ 甘えん坊さんだね、美穂は」

あたしがそう言うと、美穂は益々顔を赤くした。
恥ずかしいのか、少し不満そうに頬を膨らませて「うぅ〜〜」なんて唸っている。
そんな子供っぽい美穂の仕草がやっぱり可愛くて、ついつい笑みが零れる。
あたしは笑みを浮かべたまま、恥ずかしさと不満が心に同居している美穂に言った。

「いいよ。一緒に寝よっか、美穂」

あたしと美穂は2つ年が離れた姉妹。
年頃の姉妹兄弟にあるような喧嘩なんて、殆どない程仲がいい。
小さい頃からいつも一緒。長い間離れ離れになった事なんて、修学旅行くらいしかない。
学校へは一緒に登校しているし、どこかへ遊びに行く時だって2人一緒に出かけている。
家にいる時だってそれは同じ。食事は勿論の事、お風呂や夜寝るまでの時間、そして寝る時も一緒。
周りの人達が口を揃えて言うように、あたしと美穂は本当に『仲のいい姉妹』なのだ。
そして、あたしと美穂のそんな関係は、これからもずっと続いていく。
勿論、生きている限り何が起こるからわからないから、ずっと一緒とはいかないだろうけど、
逆に離れ離れになるなんて考えた事もなかったし、できればそれを望みたくなかった。
美穂はどうなのか知らないけど、あたしは結婚なんてしない。したくない。
いつまでも美穂と一緒にいたい。いつまでも美穂と幸せなユメを見続けていたい。
あたしは、そう願い続けていた。だけど、あたしのそのユメは、あの日――










前兆はあった。こうなるのだろうと予想はしていた。
どんな存在でも永遠がないように、それが終わりを迎える事を、あたしは感じ取っていた。










その日は、朝から重苦しい空気が家全体を覆っていた。
否。『その日は』ではない。ここ最近、家の中の空気が重く感じる。
大気の中にいるのに、まるで水の中にいるみたいに重く纏わりつき、息が詰まりそうになる。
その重苦しい空気を発しているのはあたし達の両親。今、2人は喧嘩をしているのだ。
一体何が原因で喧嘩がはじまったのか、あたしは勿論の事、美穂だってわからない。
気づけば2人の口数は減り、会話をしたかと思えばすぐに言い争いになり、そして喧嘩がはじまる。
あんなに仲のいい夫婦だったのに。あんなにも幸せそうな笑顔を見せていた2人だったのに。
今では、その面影もない。あたしは、近い内に両親の関係が終わる――離婚する事を予想していた。

「……行ってきます」

「み、美穂も行ってきます」

仕度を済ませたあたしと美穂は、逃げるように学校へ向かった。
実際、あたし達は逃げている。両親が発しているあの重苦しい空気から。
いつ喧嘩がはじまるかもわからない、常にピリピリとした家の中にいる事が苦痛だから。
自分の部屋で耳を塞いでも聞こえてくる両親の罵り合いに、あたしと美穂は耐え切れなくなっている。
あたしはまだいい。喧嘩や罵り合いがはじまっても、それを見て見ぬ振りも聞き流す事もできる。
だけど美穂は見て見ぬ振りも聞き流す事もできない。いつも部屋で、あたしの胸の中で泣いている。
だから、あたし達は両親から逃げている。自分達のココロを護る為に。何より、美穂の事を護る為に。

「…………」

朝。何度も通り、慣れた通学路を美穂と一緒に歩く。
だけど一日のはじまりだというのに、あたし達の気と足取りは重い。
家での出来事――両親の喧嘩――の所為だ。日に日に悪化する家庭環境が、あたしと美穂を苦しめている。

「……大丈夫、美穂?」

「……うん」

あたしの質問に答える美穂。
だけどその声には、やっぱりいつもの元気さが感じられない。
美穂は両親の事が大好きだから、あたし以上に不安や悲しみを抱いている。
それに元々の性格も加わっているから、いつ限界がきてその感情が溢れ出すかわからない。
正直に言う。あたしは両親の喧嘩や離婚云々よりも、その事の方が心配だった。
できる事なら、美穂が抱えている不安や悲しみを、少しでもいいからあたしが代わりに負担したい。
だけどそれはできない。人は、他人の痛みや苦しみ、感情を代わりに負担する事はできない。
所詮、人が理解できるのは自分の事だけ。他人の事を理解する事はできない。故に、それは無理なのだ。
だから、あたしは美穂の為に、姉としてできる事をする。する事しかできないのだ。

「……大丈夫。大丈夫だから」

あたしは後から、美穂の小さな身体を抱きしめた。
壊れ物を扱うように優しく抱きしめるいつもとは違い、力強くギュッと。
姉としてあたしができる事。それは美穂が溜め込んだそれら負の感情を、少しでも和らいであげる事だ。
美穂が一番安心できる、一番大好きな方法で。美穂のココロもカラダもあたしの温もりで包み込む。
それが、美穂が抱えている不安や悲しみを代わってあげる事ができない、あたしができる唯一の事。

「……ぐすっ。ありがとう、お姉ちゃん」

お礼なんていいよ。
あたしはその言葉を口には出さず、心の中に留めた。
言う必要がないからだ。あたしは美穂に感謝されたいからそうしたのではない。
美穂の事が大切だから、美穂の事が世界で一番大好きだから、あたしは美穂の為に何かしたかったのだ。
だからお礼なんていらない。その言葉の代わりに、あたしは一瞬だけ腕の力を強め、美穂を放した。

開放された美穂は、少しだけ残念そうな表情を見せた。
できれば、あたしだってまだ美穂の身体を抱きしめていたかった。
だけどここは家の中ではなく、人が行き交うような住宅地のど真ん中。
まだ朝方だから人の姿は見えないけど、いつ通勤通学ゴミ出しなどの理由で人が通るかわからない。
知り合い――とっても一部――ならまだ見られてもいいけど、流石に他人に見られるのは恥ずかしい。
だから誰かに見られる前に、あたしは美穂を放したのだ。

「行こうか、美穂」

「うん」

そっと、美穂の小さな手を取って握る。
抱き合っている姿を人に見られるのは恥ずかしいけど、手を握るのなら恥ずかしくない。
だから抱きしめれない代わりに、あたしは美穂と手を繋いで学校へ行く事にしたのだ。
もっとも、こんな風に手を繋いでいられるのは、美穂が通っている中学校付近まで。
この妹姫市にある小中学校は、新妹姫と旧妹姫の中間にあって、両方の街の子供が通っている。
それに対して白百合は、旧妹姫が造られる頃に建てられたのだから、当然旧妹姫の方にある。
だから美穂と一緒に登校できるのは中学校までが限界なのだ。





美穂と手を繋いだまま通学路を歩く。
学校が近くなるにつれて、美穂と同じ制服を着ている生徒の数が増えてきた。
その中の何人かは手を繋いでいるあたし達の事を見ているけど、それでも少人数。
実は、こうして美穂と手を繋いで登校するのははじめてではない。もう何度もあるのだ。
それにあたしがまだ中学校に在校していた頃は、いつも美穂と一緒にいた。
だから殆どの生徒はあたしと美穂の仲を知っていて、もう周りは慣れているのだ。
勿論、皆が慣れている訳でもないし、周りの人がどう思っているかわからない。
だけど全ての人に理解されなくても別によかった。これはあたしと美穂の問題。他人は関係ないのだ。

「あ、晶ちゃん」

たくさんの生徒の中から、美穂は知り合いを発見。
嬉しそうにその子の名前を呼ぶと、彼女はそれに気づいたのかこちらを見た。

「ん? あぁ、美穂。それに美奈さん」

あたし達の姿を見つけると、彼女は立ち止まった。
どうやら待ってくれているらしい。あたしと美穂は小走りで彼女の元へ向かった。

「おはよう、晶ちゃん!」

美穂が元気よく挨拶をする。
抱きしめたり手を繋いだ効果があったのか、家を出た時に比べると随分元気になっている。
やっぱり美穂は元気に笑顔を見せている方がいい。辛く悲しそうな表情は似合わない。
私は元気を取り戻しはじめた美穂に満足しながら、一緒に挨拶をした。

「おう。おはよう」

あたし達2人の挨拶に、彼女は少し男っぽい挨拶をした。
彼女は千鶴晶。美穂の親友の1人で、付き合いは小学校の頃からになる。
男っぽく少し乱暴な口調同様に、性格も大雑把でまるで男の人みたいな印象。
加えて身長が同年代の女の子よりも高く、あたしよりも背が高く170cmもある。
その所為で不良扱いされた時もあったけど、根は優しくて凄く面倒見のいい女の子だ。

「珍しいな、2人がこんな時間にいるなんて。
 いつもオレより早く来ているのに………何かあったのか、美穂?」

「え? う、うん……ちょっと」

晶ちゃんが疑問に思うのも仕方ない。
いつものあたし達は、晶ちゃんより早く学校に来ている。
理由としては、あの重苦しい空気の家から早く出たいのと、あたしが遅刻しない為。
幾らこの中学校があたしの通学路の途中にあるとはいえ、何らかの理由で遅れる事があるからだ。
ちなみにその『何らかの理由』というのは、美穂と戯れ合っているのが殆どだったりする。
まぁ。そういう事で普段はもう少し早く着くのだけど、今日は抱き合っていたから仕方ない。
ただ晶ちゃんに質問され、今朝の抱き合った事を思い出したのか、美穂は顔が赤くなった。
うん。本当にわかりやすく、何より可愛いリアクションをしてくれる、美穂は。

「……何かしたんですか、美奈さん?」

そんな美穂の反応を見ていた晶ちゃんが、あたしに質問してきた。
うん。流石、小学校の頃から美穂の親友をやっているだけの事はある。
美穂が顔を真っ赤にして恥ずかしがっている原因。それが誰にあるのかよくおわかりで。

「うん。ちょっとね〜♪」

今朝の抱き合っていた事は、普通のなら話せるようなものではない。
だけど晶ちゃんはあたし達の事を知っている3人の内の1人で、話しても特に問題なし。
ただ、あたしが簡単に答えるのも面白くないし、何より時間がそろそろなくなってきた。
あたしは美穂に「説明よろしく♪」とウインクして、小走りでその場から離れた。
時計を見ると、白百合まで軽いランニング決定。あたしは少しペースを上げて白百合へ向かった。
ちなみに、残された美穂は「え〜〜っ!?」なんて絶叫を上げていたけど、あたしは聞かなかった事にする。





「はぁ……疲れたぁ」

教室に着いたあたしは席に着くと同時にダウン。
新街にある中学校から、旧街にある白百合までのランニングは流石にキツイ。
おまけに白百合は丘の方にあるから、心臓破りの坂――とまではいかないけど、長い階段がある。
普通に歩いていても体力を使う階段相手にランニングだと、上りきった頃にはもうバテバテ。
このまま机に伏せて目を閉じれば、そのまま夢の世界へ旅立てるかもしれない。
大体、学校が丘の上にあるから、毎日の登下校で階段を上り下りしないといけないのが辛い。
地元の人には、学園が丘の上にあるから『丘に咲く白百合の花』って呼ばれているけど、
遅刻寸前の多くの生徒は、丘の上にじゃなくて平野に咲いて欲しかったと思っている事だろう。

「お疲れね、美奈」

「ん……咲耶?」

閉じかけた目蓋を開けると、目の前に見知った顔があった。
彼女は咲耶。あたしの幼馴染兼親友で、付き合いは幼稚園の頃からになる。
当然、美穂とも幼馴染で、更に咲耶の妹である鞠絵ちゃんとは晶ちゃんも加わって仲良し3人娘なのだ。
ちなみに、咲耶と鞠絵ちゃんと晶ちゃん。この3人があたしと美穂の事を知っている3人。

「うん。ちょっとあってね……また遅刻しかけた」

重たい身体を起こしながら答える。
『また』というのは、今日みたいな遅刻ギリギリの登校が多いという事。
別にあたしが寝坊したから遅刻しかけたのではなく、理由は今朝と同じ。
ここ最近、両親の様子がおかしい。何が原因かはわからないけど、どうやら喧嘩をしている様子。
その所為で家全体が重苦しい空気に包まれ、気が弱い美穂はいつも泣きそうな表情をしている。
あたしは美穂を護る為、家では常に傍にいるようにして、少しでも落ち着けるように支えてあげている。
だけど、それでも美穂が耐え切れずに泣き出してしまう時がある。
その時は美穂が落ち着いて泣き止むまで、ずっと傍にいる。そう今朝みたいにだ。
ただ、その所為で遅刻しかける時があるけど、それは仕方ない事。あたしは、美穂が大切なのだから。
その事を知っている咲耶はそれ以上何も言わず、ただ短く「そう」とだけ答えた。
咲耶はあたしと美穂の幼馴染。だから、あたし達の事を知っているし、何かあれば相談に乗ってくれる。
勿論、その逆も。咲耶が悩んで苦しんでいる時は、あたし達が相談に乗る。お互いに助け合っている。
だけど、今あたしと美穂が抱えている問題は家庭内の事。幾ら幼馴染でも、深く入る事はできない。
その事も咲耶にはある程度話しており、彼女自身も理解している為、あまり追求はしてこない。

「そういえば、鞠絵ちゃんの調子はどう?」

話題を変える為、あたしは咲耶にそう訊ねた。
もっとも、その質問はどうせ訊ねるつもりだったものだけど。

「最近は落ち着いているわ。発作や発熱も少ないし。
 昨日お見舞いに行ったけど、外に出たいってせがんでいたわ」

「あはっ♪ もうすっかり元気なってるね」

「えぇ。一時はどうなる事かと思ったけど」

咲耶の妹、鞠絵ちゃんは今入院している。
小学校の頃に病気を患って、無理して学校に来た結果倒れたそうだ。
あたしはその場にいた訳ではないけど、美穂や晶ちゃんがその場に居合わせていた。
2人の話だと、鞠絵ちゃんは保健室へ行こうとした時、突然倒れて意識を失ったそうだ。
その後、意識を取り戻さない鞠絵ちゃんは病院に運ばれ、その事は姉である咲耶に知らされた。
知らせを聞いた咲耶は、いつもの冷静な姿からは想像できない程、酷く取り乱していた。
「鞠絵の体調がわからなかった私の所為だ」と言って、自分を責めていたのを覚えている。
それが今から大体5年程前の事。3学期も終わりに近づいてきた頃の出来事。

「まだ油断は禁物だけど、この調子なら冬までには退院できるだろうって」

「そっか。なら、春からは仲良し3人娘も白百合か。
 ただ、鞠絵ちゃんや晶ちゃんは問題なさそうだけど、美穂がねぇ」

我が妹の事だけど、咲耶と2人で小さく笑う。

あの日から、鞠絵ちゃんは妹姫市から離れた病院に入院している。
常に安静にしていないといけないそうで、病院内にある院内学級で勉強。
だけど成績はよく、正直に言って普通の学校に通っている美穂よりも全体的に上。
中学校は美穂や晶ちゃんと一緒に通えないから、せめて高校だけでもと白百合受験を志望している。
前に本人が話してくれたけど、鞠絵ちゃんの夢は『皆と一緒の学校に行きたい』だそうだ。
普通の人なら何も努力しないで叶う夢。ほんの少し、歯車がずれただけで狂ってしまう日常。
その日常に少しでも近づけれるように、咲耶は必ず日曜日にお見舞いに行って色々な話をしている。
あたしや美穂、晶ちゃんもお見舞いに行くけど、咲耶みたいに毎週必ず行くのは難しい。
お金や時間、その他色々な理由で。だけど、咲耶はそれらを犠牲にして鞠絵ちゃんに逢いに行っている。
咲耶にとって、鞠絵ちゃんはそれ程大切な存在なのだ。

「あたしと美穂はいつも一緒にいるから、咲耶や鞠絵ちゃんの気持ちは判らないけど、
 もしも同じように離れ離れになると辛いし悲しい。何より、寂しくて心が潰れそうになると思う。
 だから咲耶が傍にいてあげたから、鞠絵ちゃんはそんな想いをせずに退院まで頑張れたんだと思うよ」

咲耶の鞠絵ちゃんを想う気持ちはよくわかる。
あたしには美穂がいる。もし、何らかの理由で美穂と離れ離れになると辛いし悲しい。
滅多に泣いたりしないあたしだけど、もしも突然その時がきてしまうときっと泣いてしまう。
『離れたくない』と泣き叫ぶと思う。あたしは、美穂と離れたくない。ずっと一緒にいたいのだ。
それに、そんな気持ちになるのはあたしだけではない。美穂だってそうに決まっている。
寧ろ、あたし以上に美穂の方がショックを受けて、悲しさのあまり大泣きしてしまうはず。
あたしと美穂はお互いに依存し合っている。簡単には、離れ離れになる事はできない状態だ。
だから、咲耶が他の事を犠牲にしても鞠絵ちゃんの元へ毎週必ず行く気持ちがわかる。
離れているからこそ、逢う事によってお互いに不安や寂しさを取り除け、安心できる。
そして何より、咲耶は辛い入院生活を頑張っている鞠絵ちゃんを励ます為に、逢いに行っているのだ。
人が一番励みになる事。それは大切な人が支えになってくれる事なのだ。でも――

「でも、咲耶。あまり無理したらダメだよ。
 鞠絵ちゃんが大切な気持ちはわかるけど、無理して何かあった時に悲しむのは鞠絵ちゃんなんだから」

咲耶は鞠絵ちゃんの為に無理をしている。
週に一度とはいえ、長時間の移動は疲れが溜まってくるし、何より心労の方が酷そうだ。
鞠絵ちゃんの事を大切に想う気持ちや、寂しい想いをさせたくない気持ちはわかる。
だけど疲労や心労が集って咲耶が倒れたりしたら、逆に鞠絵ちゃんが心配するし、何より悲しむはず。
人は、大切な人が傍にいてくれると安心できるけど、逆にその人に何かあった時は最も不安に陥るのだ。
咲耶は美穂と同じように、自分より他人を優先する傾向が強い。だから親友として、あたしは忠告した。

「……わかってる。
 折角明るい未来が見えてきたのに、また鞠絵を悲しませるような事はしないわ」

「だね」

咲耶の言葉に安心して、あたしは笑みを浮かべる。
何も咲耶の身に、何かあった時に悲しむのは鞠絵ちゃんだけではない。
あたしや美穂、晶ちゃんは勿論の事、他にも咲耶と親しい人は皆心配するし悲しむはず。
だから少しでも自分の心も身体も気遣う配慮がある事を確認できて、あたしは一応安心した。
ただ、その気遣う理由が、やっぱり鞠絵ちゃんに関する事なのは咲耶らしいといえば咲耶らしい。

さて。咲耶とお喋りしている内に、身体の方は随分回復した。
まだ少し足が痛いけど我慢できない程でもないし、今日は体育がないから大丈夫だろう。
本日最初の授業が物理と、ちょっと頭を使う授業で辛いけど大丈夫。今日も1日頑張りまっしょい!
ダウンしている身体に気合を入れて授業の準備をしていると、咲耶があたしの事を見ていた。
咲耶は心配な瞳であたしの事をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いて言葉を発した。

「…………でもね、美奈。
 貴女のその言葉は、貴女自身にも言える事なのよ?」










永遠なんて、この世に存在しない。
どんな存在にも必ず『はじまり』があり『終わり』がある。
物なら創造と破壊。生物なら生誕と死。命の有無とは関係なく『はじまり』と『終わり』はある。
それは人と人との繋がりも同じ。出会いを果たせば、いつか必ず別れなければならない瞬間がくる。
例えばクラスメイト。3年間同じクラスだった人もいたけど、違う高校になってからは会っていない。
例えば死別。あたしや美穂にとても優しかった祖父は、数年前に亡くなりもう二度と会う事はできない。
他にも旅行先で出会った人や、引越しによって別れた人。経験はないけど退職や離婚も同じ事。
そんな環境の変化によって会わなくなった場合や会えなくなった場合も、一種の『終わり』だといえる。
人は――否。この世に存在する全ての存在は、常に『はじまり』と『終わり』の連鎖の中にいる。
『はじまり』と『終わり』は常に表裏一体の存在。切り離す事はできない1つの真実なのだ。
そしてその瞬間は、あたしと美穂の周辺でもはじまろうとしていた。










時が流れるのは本当に早いと思う。
朝起きて、美穂と学校へ行ったかと思えば、今は一緒に下校している。
ただ、今日は生憎の曇り空で、いつもなら見れる茜色の空は薄暗い灰色の空になっている。
そんな空の下、通学路の途中にある商店街を歩いていると、多くの人が買い物をしている姿がある。
中には子連れのお母さんも多くいて、小さな子供の手を優しく引いていた。
そんな光景を見ると、自分にも昔あんな風にお母さんと一緒に出かけていた頃があった。
小学校を卒業してからは、反抗期もあって親と出かける事は少なくなっていたのを覚えている。
今思えば、その頃はまだ両親も殆ど喧嘩をしていない、本当に仲のいい夫婦だったのに……。

「……はぁ」

昔と今との違いに、あたしは落胆の溜息を漏らした。
今の両親は、いつ離婚するか正直わからない状態にある。
もしかしたら仲直りするかもしれないし、逆に大喧嘩して溝が深まるかもしれない。
あたしや美穂としては、勿論仲直りをして何もかも元通りになって欲しいけど、それは難しそうだ。
何かきっかけがあれば可能かもしれないけど、あたしや美穂が何か言ったところで変わるとは思えない。
第一、当人である両親が共働きで食事も別々に食べている。家に帰るのだって、殆ど寝る為だけ。
その所為で、最近は食事の用意もあたしがしている。今だって、今日の夕飯の買い物中だ。
ちなみに、美穂は掃除や洗濯は得意で好きだけど、料理が全くダメで壊滅的だったりする。
それはともかく、今の両親は仲直りするきっかけは殆どない。このままだと、本当に離婚の恐れがある。
あたしはそれが嫌だ。離婚して家族が――特に美穂と離れ離れになるのが、あたしは嫌だ。
それは美穂も同じで、絶えない両親の喧嘩や罵り合いに怯え、あたしと離れる事に不安を抱いている。
美穂の場合は、本人の性格の所為であたし以上に恐怖や不安を感じ、泣いてばかりいる。
だからあたしは、悲しみや恐怖、不安から泣いている美穂をいつも慰めて、支えている。
どんなに自分が辛くても、どんなに自分が悲しくても、あたしは美穂の為なら自分を犠牲にできる。

「……って、確かにあたしも咲耶と同じか」

自分が決意した意思と咲耶に言われた事を思い出し、思わず苦笑する。
咲耶に無理をしないようにと忠告したけど、結局はあたしも無理をしている。
しかも、お互いに大切な妹の為に。類は友を呼ぶと云うけど、その言葉は正しいのかもしれない。

「ふぇ? 咲耶さんと同じって、何が?」

あたしの呟きが聞こえたのか、隣を歩いていた美穂が首を傾げた。

「ん? それはね、あたしも咲耶も妹がだ〜い好きってところが♪」

「だ、大好きって……はぅ〜」

あたしの告白(?)が恥ずかしかったのか、美穂はお決まりの台詞を漏らした。
しかも、流石に今回はちょっと破壊力があったみたいで、いつも以上に顔が真っ赤。
例えて言うなら、いい具合に熟したリンゴ。とても美味し――ではなく、とても可愛い仕草。
いつも通りの決まったリアクションだけど、あたし的には飽きない可愛らしさがあるからよし。
それに話題を逸らす事もできた。可愛いリアクションが見れた事よりも、その事の方が重要。
あたしは、美穂の為になら自分を犠牲にできる。それ程、あたしは美穂の事が大切なのだ。
だけど、その事は本人には黙っていた方がいい。美穂の事だから、知ればきっと悲しむ。
それだけはダメ。美穂を悲しませるような事だけは、絶対にしたくない。あたしは咲耶と同じなのだ。

「ん〜〜? どうしたのかな〜〜?」

「え、えっと……その………はぅ〜〜ッ」

少し意地悪っぽく訊ねてみるけど、美穂は返答不能状態。
顔は真っ赤。何か言葉を口にしようとしても、その言葉がキチンと出せていない。
おまけに何もないところで転んだり、電柱にぶつかったりして、ドジっ娘化も進行中。
美穂のそんな状態は家に着くまで続いて、おかげで中々楽しい買い物になった。だけど――










楽しい一時は、一瞬の内に終わった。










夕飯の買い物を終えた後、あたしと美穂は家に帰った。
その頃には、灰色だった雲からポツポツと雨が降り出していた。
今朝見た天気予報によると、この雨は夜から本格的に降り出して雷も鳴るらしい。
ただ、小雨でも灰色の雲が太陽からの光を遮断して、街全体を空を薄暗くしている。
その所為で、明かりが灯っていない家が余計に薄暗く感じてしまう。
あたし達が学校に行っている間、この家の中には殆ど誰もいない。
共働きをしている両親が帰ってくるのは夜遅く。もしくは帰ってこないからだ。
稀に仕事が休みで家にいる時はあるけど、部屋に篭っているから顔を合わせる事は殆どない。
だからこの時間帯に帰って「ただいま」と言っても、誰も答えてくれる人はいないし、
本当なら言う必要はないのだけど、何も言わずに家の中に入るのはあまりいい感じがしない。
別に「お帰り」という言葉を求めている訳ではない。ただの礼儀として口にしているだけ。
美穂が隣にいる以上、その言葉は聞こえてこない。そのはずだったのに。

「お帰りなさい」

玄関に母さんの姿があった。
あたしは、どういう事なのかわからず一瞬戸惑った。
どうして母さんが。仕事がお休み? 違う。今日はいつも通り仕事で帰りが遅くなると言っていた。
だったら早退? でも、それならこんな風にあたしと美穂の帰りを待っている理由にはならない。
もし早退とかの理由で早く帰ってきたのなら、普段通り部屋で休んでいるはず。それなのにどうして。
あたしの思考は疑問を解こうと必死だけど、導き出せた答えはない。
そしてその疑問は、母さんが口にした言葉によって解決した。

「……話があるの。ふたり共、リビングに来て」



母さんの言葉に従ってリビングに行くと、そこには父さんもいた。
仕事から帰ってきたところなのか、スーツのままの姿でソファに座っている。
その隣に母さんが座り、あたしと美穂は2人の向かい側に腰を下ろした。
今思えば、こうして両親が喧嘩や言い争いをせずに、隣同士でいる姿を見るのは本当に久しぶり。
普段の2人は滅多に顔を合わせようとしないし、顔を合わせれば喧嘩や言い争いになる。
その所為で自然にお互いがお互いに距離を置きはじめて、その結果が今の家庭状況になっている。
だから今の両親の姿は珍しい。だけど、美穂は不安そうにし、あたしは嫌な胸騒ぎに襲われていた。
そして、黙っていた父さんがゆっくりと重たい言葉を口にした。

「……私達は、離婚する事にした」

静かに、そして重く父さんは口を開いて言葉を発した。
それは予想していた言葉。だけど、外れて欲しかった予想。聞きたくなかった言葉だった。

「り、離婚って……本当、なの?」

最初に訊ねたのは美穂だった。
ただ、その声は振るえ、顔色が悪くなっていた。
あたしは、こうなる事をある程度予想していたから、まだショックは小さかった。
だけど、美穂があたしみたいにそんな『最悪の状況』を予想するなんて思えない。
そしてその予想も当たり。美穂はショックを受け、ココロが不安でいっぱいになっている。

「あぁ。もう決めた事だ」

だから父さんの言葉に、美穂は涙を浮かべる。
美穂は純粋なココロの持ち主だけど、その反面ココロが凄く傷つきやすい。
その所為で、それまで溜まっていた不安や悲しみが限界に達し、ココロから溢れ出ている。
あたしはそんな美穂の手をギュッと握って、あたしが最も不安に感じている事を訊ねた。

「……そうなった場合、あたしと美穂はどうなるの?」

正直、あたしは両親が離婚してもいい。
それは別に両親が嫌いだからという訳ではない。寧ろその逆で、両親の事は好きだ。
だけど離婚すると決めたのは本人達。これは父さんと母さんの2人の問題。
2人だって、最初から離婚する事を決めていた訳じゃない、悩んで考えた結果なはず。
だったら、あたしは2人の結果に何も言わない。2人が別々に生きるのならそれでもいいと思う。
両親の離婚というのは娘であるあたし達にも関係はあるけど、当事者じゃないから口は挟めない。
だけど、それはあくまで両親の事だけ。あたしが問題にしているのは、あたしと美穂がどうなるのか。
父さんと母さん、どちらか一方に2人共着いていくのか、それとも別々になるのか………。
あたしは、その事が一番不安に感じている。

「…………美奈は私が、美穂は母さん――美紀がそれぞれ引き取る事にしている」

それは最も聞きたくなかった言葉。
あたしが想像していた幾つかのシナリオの中で、最も最悪で最も外れて欲しかったシナリオ。

「ふざけないでッ!!!」

少しずつ昂っていた感情が一気に溢れ出した。
立ち上がり、その原因である父さんに怒りをぶつけるように睨む。
あたしの突然の叫びに皆は驚いている。特に隣に座っていた美穂は怯えている。
普段のあたしなら、美穂が怯えるような事はしない。だけど今だけはダメだった。この昂った感情では。

「父さんと母さんが同意で別れるのなら、あたしは別に何も言わない。
 原因なんてあたしにはわからないし、何よりこれは2人の問題だから。
 でも、それにあたしと美穂を巻き込まないで! 2人が別れる事に、あたし達は関係ないでしょ!」

「……何だと?」

低い、怒りの篭った声が父さんの口から漏れた。
驚いていた表情が一変し、怒気の篭った瞳であたしを睨みつけ立ち上がった。

「お前、親に向かってその言い草はなんだッ!」

パンっと、乾いた音がリビングに響く。
それが父さんに頬を叩かれたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
だけど別に痛いとは思えなかった。そこまで感情が昂っているみたいだ。
あたしは体制を崩し、さっきまで座っていたソファに尻餅をついた。

「お、お姉ちゃん!」

美穂が慌ててあたしの身体を支える。
小さな美穂の手が赤く腫れた頬に触れ、ひんやりとした感触が伝わってくる。
少しずつ感覚が戻り、痛みによる熱が出てきた頬にその冷たさは気持ちよかった。
あたしは、心配そうに「大丈夫?」と訊ねた美穂に小さく頷いて答えた。
そして再び父さんに視線を向けた。

「子供は子供らしく、親の言う事を聞けばいいんだッ」

父さんの瞳にはまだ怒りが見える。
怒りに満ちた言葉は、親に反発した子供によく言う定番の言葉だった。
そういえば、最初に父さんが言った『親に向かって』もそうだった。
この手の言葉は、決まって子供は親に従うように言うものばかりだ。
あたしは、その手の言葉が何よりも大嫌いだ。

「………子供は親の言う事を聞け?
 じゃあ何? 今ここで父さんが『死ね』と言ったら、あたしは死なないといけないの?」

冷たく、父さんに言う。
あたしの答えが思いも寄らなかったのか、父さんは目を丸くして驚いている。
だけどそれは一瞬の事で、また怒りの篭った瞳であたしを睨んできた。

「誰もそんな事を言っていないだろッ! 私は、ただ――」

「一緒の事よ!
 子供は親の言う事を聞け。親の言う事は絶対。親の言う事は正しい。
 父さんの言葉はそういう意味でしょ? だったら一緒の事じゃない!
 『死ね』とか『裸になれ』とか言われたら、その通りしろって、言っているのも同じなのよッ!」

あたしは父さんの言葉を遮るように叫んだ。
その叫びに込められた怒りは、父さんとあたしが大嫌いな言葉に対してのもの。

『子供は親の言う事を聞け』
あたしはその手の言葉が大嫌いだ。
どうして、子供は親の言う事に従わなければならない。
その理由がわからない。よく聞くのは『今まで育ててやった恩を』という言葉。
確かに『育てる』という点では金銭面をはじめ、親のおかげだと言える。
だけど、ただ育てただけで、親が子供に絶対的な主従関係を持つのはおかしい。
幾ら弱いとはいえ、子供だってキチンと自我を持っている。人形なんかじゃない。
自我を持っているのだから、当然自分が思い描くように行動を起こす。
それが一般的に見て間違いなら注意は必要だけど、親の思い通りにならないから注意するのはおかしい。
親は親。子供は子供。お互いに1人の人間なのだ。立場は同じだと言える。
それなのに、親は自分の考え――ある意味我侭を子供に押し付けている。
子供に対しては、自分達が正しく法だと思っている。あたしはそれが気に入らない。

「……ぅっ」

あたしの叫びと眼光に、父さんは言葉を詰まらせた。
それによって、この勝敗は決まったと言える。勝者はあたしで、敗者は父さん。
言い争いにおいて、少しでも相手の言葉に怯んだり言葉を詰まらせてはダメだ。
それがほんの一瞬だとしても、それだけで相手の言葉を肯定しているようなものなのだ。

「……何か言いたい事、ある?」

「…………」

あたしの問いかけに、父さんは沈黙で答えた。
父さんとの口論はもう終わり。これ以上話す事は何もない。
今はあたしの言葉で沈黙しているけど、また何か『言い訳』を思いつかれたら厄介だ。
次も口論で勝てる保障はない。だからあたしが勝っている内に、次の行動に移る。

「………行きましょ、美穂」

あたしは美穂の手を取ってリビングを出た。
向かうのはあたしの部屋。今はあの2人の顔を見たくはない。
本当なら今すぐ出て行きたいが、生憎外は雨が強くなり雷まで鳴り出している。
こんな嵐の中を、美穂を連れて歩き周るのは危ないし、生憎家出先の宛がないのだ。
だから暫くは自分の部屋に篭城する。あたしの部屋には鍵が付いているし、この鍵を両親は持っていない。
冷蔵庫もあり、その中には食べ物や飲み物も入っている。最も、今は何も口にする気にはなれないが。
それにあの2人だって1日中家にいる訳がない。共働きをしている以上、必ず家を空ける時がある。
そのタイミングで足りない物は調達すればいいし、お風呂とかも済ませればいい。

あたしは、あの2人が謝るまで篭城すると決めた。
謝って、ちゃんと話をして、また昔みたいに『幸せな家族』に戻って欲しい。
だけどそれはもう遅いかもしれない。父さんと母さんの溝は深まり、遂にはあたし達との溝も。
最早、あの2人との『家族』としての絆はもう崩れ去ったのだ。
崩れ去った物――絆は、もう2度と元には戻らない。何もかも手遅れなのだ。
だからあたしは失いたくない。あたしに残された、ただ1つだけの『家族』の絆――



「……おねえ、ちゃん?」



――美穂という存在を。





雨が降り、雷が鳴り響く。
嵐の訪れは、家族の絆の崩壊の訪れでもあった。
それは身を引き裂かれそうな程の痛みを伴い、全てに絶望させる程の喪失感を与えた。
あたしは、ただ元に戻って欲しかっただけ。失いたくなかっただけ。
本当は父さんの事も母さんの事も大好きだった。
大好きだから、愛していたから離れ離れになりたくなかった。
だから2人に離婚なんて最悪の決断をして欲しくはなかった。
仲直りして、昔みたいに笑顔の絶えない明るい家庭に戻って欲しかった。

だけど最早何もかも手遅れ。
一度崩壊への道を歩み出した絆は、どのような方法でも元通りにはならない。
もうどんなに望んでも、あたしのユメ見た『幸せな家族』には戻れないのだ。





――――そう。





家族の絆の終わりは、同時にあたしのユメノオワリだったのだ。

「……うっく…ぐすっ……」

気づけば、あたしは涙を流していた。
幾ら拭き取ろうとも、決して止まる事のない悲しい涙。
あたしはもう何も考えたくなかった。思考を巡らせば、最悪の事ばかりを考えてしまう。
だからあたしは、この悲しみにココロもカラダも委ねて泣き続けた。
泣いていれば、悲しみの渦の中にいれば、何も考えずに済むから…………。

「……お姉ちゃん」

美穂は、そんな子供のように泣きじゃくるあたしを抱きしめてくれた。
とても優しく、とても温かく、まるで普段のあたしが美穂にしてあげるように。
薄暗いあたしの部屋に、雨が降る音と雷が鳴り響く音、そしてあたしの泣き声が哀しく響き渡る。










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