その手を離さないで………





















休日というものを、どう過ごしているだろう。
殆どの人は自分の好きな事をしたり、友達と出かけたり、家族と過ごしているはず。
普段の疲れを癒したりストレスを発散出来る休日だ。ゆっくりと身体を休めるのが普通。
時期や事情によってそうでもない人もいるが。テスト前の学生然り、仕事のある社会人然り。
そんな休日。私は入院している鞠絵の為に使う事が多い。

私の可愛い妹の鞠絵。
幼い頃に病気を患ってからは、街から随分離れた病院に入院している。
両親曰く、街中にある病院よりも自然に溢れる場所の方がゆっくりと療養出来る、との事。
だけどその所為で、お見舞いに行くだけで片道が1時間以上もかかり、気軽に会いに行けない。
幾ら治療の為とはいえ、鞠絵に寂しい思いをさせてしまっているのが難点だ。
せめてお母様が専業主婦なら毎日――は辛いかもしれないが、週に何度か行けるはずだけど、
生憎、私達の両親は共働き――お父様は駅長、お母様はケーキ屋――な為、それは叶わない。
だから、私が休日はなるべくお見舞いに行って、少しでも鞠絵の寂しさを紛らわしている。

「おはようございます」

長い病院の廊下を歩いていく。
もう何年も通い続けた病院。道成や各施設の配置はキチンと頭に入っている。
行き交う看護婦さんや先生とも顔見知りになり、挨拶や世間話をする事も。
ただ、病院内に漂う独特の消毒液の匂い。これだけは何年も通っているけど慣れそうにない。


コンコン


鞠絵の病室に着くと、扉をノックする。

少し古い木製の扉。
この扉の向こうには鞠絵が、私が来るのを待っている。
ただ、今日の私はいつもより少し早めにお見舞いに来ている。
私自身や電車の都合とかがあるから、普段は大抵お昼前に来る事が多い。
だけど少しでも長く鞠絵と一緒に過ごそうと思って、今日は1時間ずらしてみた。
勿論、鞠絵には内緒。ただ、早く来るよりも秘密にして驚かせた方が何倍も楽しそうだ。
だからドッキリの対象である鞠絵には内緒。こんな時間に私を見たら驚く事間違いないだろう。
驚いた鞠絵の顔が浮かぶ――と、そんな事を考えながら返事を待つが、鞠絵からの返事はない。

「どうしたのかしら……?」

返事がない事に首を傾げる。
いつもなら『どうぞ』という鞠絵の返事があるはず。
誰かが来たのに何も返事をしないなんて、普段の鞠絵なら絶対にしない。
疑問に思いながら、私はゆっくりと扉を開け部屋に入った。

鞠絵の部屋は静かだった。
清潔感溢れる白を基調とした壁にかけられた時計の音以外の音は殆どない。
時折窓から入り込む春風に、カーテンを靡かせながら木々のざわめき等が聞こえて来るぐらいだ。
人工的な音はないに等しい。あるのは静かで優しい自然の音だけ。時計の音ですらそれに溶け込んでいる。
あまりに静か過ぎて、私が歩く度に鳴るコツコツという足音がとても煩く思える程だ。
そんな自然に溶け込んだ部屋の主である鞠絵は、窓際にあるベッドの上に横になっている。
私は、出来る限りこの静けさを壊さないように鞠絵の元へ近づく。

「鞠絵?」

ベッドの傍に着くと、鞠絵の顔を覗き込む。
いつもかけているはずの眼鏡はない。両の瞳を閉じて、安らかな顔。
耳を凝らしてよく聞けば、小さな寝息が聞こえてくる。鞠絵は静かに眠っていた。

「ふぅ。コレじゃ、返事も出来ない訳ね」

眠っているのだから、ノックをしても返事が出来る訳ない。
どうやら普段私がお見舞いに来る時間よりまだ少しあるから、軽く休んでいるみたいだ。
そういえば、最近の鞠絵が飲んでいる薬に、副作用で眠気を引き起こすものがあった。
その薬と、春の温かくポカポカとした陽気に、夢の世界へ誘われたのだろう。
鞠絵を驚かせようと思って早く来たのに、それが裏目に出てしまった。

私は鞠絵の返事がなかった理由に口元を緩めながら椅子に座る。
折角こうして気持ちよさそうに眠っているのに、起こすのは可愛そうだ。
少しでも長く鞠絵とお話をしようと思って早く来たのに、その計画が台無し。
だけど、そのおかげで普段あまり見る事がない鞠絵の可愛い寝顔が見れたからよしとする。

「ふふっ。可愛い♪」

じっと、鞠絵の寝顔を見つめる。
まだ幼さが残っている鞠絵の顔は、寝顔ともあって本当に無防備。
普段見せる大人びた雰囲気も消えて、歳相応のまだ幼さが残っている可愛い顔。
春の陽気のおかげで、気持ちよさそうに眠っている。とても穏やかな寝顔だ。
だけど、入院したばかりの頃は、こんな寝顔は見れなかった。

もう何年も前の事。
重たい病気を患った鞠絵は治療の為にこの病院に入院した。
まだ10歳になったばかりの鞠絵は、私達家族から離れて暮らさないといけなくなった。
治療の為だから仕方ない。私も鞠絵も幼いながらその事は充分判っていた。
その反面、幼い故に、まだ鞠絵の病気の本当の恐ろしさを知らず、すぐに治ると思っていた。
だけど鞠絵の入院が少しずつ延びて長くなるにつれ、私達は本当の恐ろしさを知った。


『………姉上様。
 わたくし、もうここから出られないのでしょうか……?』


入院してから3年、鞠絵は悲しそうに言った。
13歳になり中学校へ入学する歳だ。クラスメイトや友達は皆、地元の学校へ進学した。
だけど鞠絵は、そんなクラスメイトや友達と一緒に進学する事は出来なかった。
それどころか病状が少しずつ悪化していき、堰や発熱で苦しむ日々を送っていた。
発作が日に日に強くなり、病室から出る事は愚かベッドから出る事すら出来ない時があった。
少し立ち歩くだけでフラつき、誰かに支えながらじゃないと倒れてしまうのだ。
鞠絵は外に出る事も出来ず、ベッドに横になるしかない。
だけど、身体を休める為にベッドに横になっても、その寝顔は時折苦しさに歪ませていた。
正直、私はもうダメだと思った。鞠絵は助からない。このまま、この病室で――――。
そんな思いを胸に秘めたまま、私は鞠絵と接していた。





そして、あの日が来た。





その日は朝から雨が降っていた。
折角の休日なのに朝から雨が降っていた所為で、少し憂鬱だった。
特に何かする訳でもなく、部屋で雑誌や友達から借りた本を読んだりして過ごしていた。
そんな時、一本の電話があった。電話の主は鞠絵の担当医である葵先生。
葵先生とはよくお話をして親しい仲だ。だけど電話してくる時は、殆どが鞠絵の病状が悪化した時。
私は、嫌な予感がしつつ葵先生の言葉に耳を傾けた。そして、先生は簡潔に言った。



鞠絵が病室からいなくなった、と――



その言葉を聞いてからの私の行動は早かった。
手早く身支度を整え、タクシーを使って病院まで向かった。
電車を待つ時間が惜しかった。タクシーは電車に比べてお金がかかる反面、早く着けるのだ。
タクシーで病院へ向かっている間、私はずっと鞠絵の無事を祈り続けていた。
今の鞠絵は碌に歩く事も出来ない程弱っている。そんな鞠絵が雨の中、どこかへ消えたのだ。
心配で心が張り裂けそうだった。

病院に着くと、先生達から詳しい事を聞いた。
11時前に看護婦さんが鞠絵を病室で見たそうだけど、お昼を持って行った時にはいなくなっていた。
鞠絵が抜け出したのはその約1時間の間という事になる。
私が病院に着くまでに1時間はかかったから、既に2時間近く鞠絵は姿を消している事になる。
そう思うと、居ても立ってもいられなくなり、私は病院を走り出した。

私には宛があった。
鞠絵がどこへ行ったのか、何となく判っていた。
それが何故なのかはよく判らない。本当に何となく判っていたのだ。
だけど私は、私のその直感を信じて走った。鞠絵の好きな場所である湖へ。
そしてその直感は当たっていた。鞠絵は湖の畔に立っていた。傘も差さず、雨に打たれて。
否。立っていたのではなく、ゆっくりと足を引き摺りながら歩いていた。



―――湖へ向カッテ



『な、何してるのよ、鞠絵!!?』


私は慌てて駆け寄って、鞠絵を羽交い絞めにした。
頭が混乱していた。とても信じたくなかった。冷静にいられなかった。
鞠絵が自殺しようとしていただなんて、とても信じられずにいた。
ただ、このまま鞠絵を放してはいけない。それだけは判っていた。


『イヤッ、放して下さいッ!
 わたくし、もう嫌なんですッ! こんなに苦しい思い、もう嫌なんですッ!
 どうせわたくしの病気は治らないんですッ ずっと病院に閉じ込められたままなんですッ!
 もう死ぬまで出られない。大好きな人とは離れ離れ。そんな辛い思いしたくないッ!
 こんなに苦しくて辛い思いに耐えるぐらいなら………わたくし、今ここで死んだ方がマシですッ!!!』


鞠絵は泣いていた。普段あまり見せる事のない涙。
普段の鞠絵は滅多に泣く事のない、笑顔の似合う子だった。
だけどそれは違う。本当は泣いていたのだ。病気が治らない事に恐れを感じていたのだ、鞠絵は。
本当は怖くて泣いていたはずなのに、私や知り合いに心配させたくない。そう思っていたのだ。
だから鞠絵は私達の前では笑顔だった。悲しみや恐怖を隠す為、ずっと笑顔だったのだ。



『仮面』という名の―――



「だけど、今はホント気持ちよさそう。
 あの時は、一時はどうなるかと心配したけど、ホントよかった」

眠っている鞠絵の頭を優しく撫でる。
それがくすぐったかったのか、鞠絵の口から小さく『……んっ』なんて声が漏れる。
起こしてしまったのかと思ったけど、またすぐに可愛らしい寝息が聞こえて、ほっとする。

今の鞠絵はとても気持ちよさそうに眠っている。
まだ入院したばかりの頃は、こんな風にゆっくりと眠れていなかったはず。
眠っていても堰や発熱といった発作に苦しまされ、熟睡出来なかったはず。
それに長い入院生活の所為で、精神的にも鞠絵を苦しめて、笑顔を奪っていた。
だけど、今ではその治療の甲斐あって、こうして穏やかに眠っていられる。
『仮面』だった笑顔も取れ、失っていた笑顔を取り戻し、私に本当の笑顔を向けてくれる。
この長い入院生活は、一時期鞠絵を苦しめたけど、今ではこうして幸せにしてくれている。

「……んっ……あね…うえ、さまぁ………」

「鞠絵?」

撫でていた手を止めて、鞠絵の顔を見る。
鞠絵はまだ眠っている。どうやら寝言みたいだ。
一体どんな夢を見ているのだろうか。私を呼んでいるみたいだけど。
そう思っていると、鞠絵の口から続きの言葉が出た。

「どこにも…いかないで………ひとりに……しないで………―――」

閉じられていた両の目蓋から涙が溢れ、一筋の線を作りながら。
一体、鞠絵がどんな夢を見ているのか私には判らない。夢は見ている本人にしか判らないのだから。
ただ、これだけは判る。今鞠絵が見ている夢。それは鞠絵が心のどこかに秘めた不安が現れたもの。
鞠絵が思う“私が鞠絵の傍からいなくなる”という不安が夢になって現れているのだ。

「………独りにしないで、か」

ポツリと呟いて、私は鞠絵の目尻に溜まった涙をそっと拭き取った。
そして小さな鞠絵の手をギュッと握ると、夢で苦しんでいる鞠絵に言った。
鞠絵が心に思った不安。“私が鞠絵の傍からいなくなる”という不安を取り除くように。

「……大丈夫。私はどこにも行かない。鞠絵を独りにしない。
 いつまで傍にいるから、安心して鞠絵。だから今はゆっくり休みなさい」

―――そう。私は鞠絵を独りにしたりしない。
長い年月の間、病気で苦しみ悲しんだ鞠絵を独りにする訳がない。
苦しんだり悲しんでいる時は慰めてあげる。泣いている時は泣き止むまで抱きしめてあげる。
いつまでもいつまでも、傍にいてあげる。鞠絵は、私にとって大切な存在なのだから。










END










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