永遠に続けばいい。
この幸せな日常が、この愛おしい一時が。
決して終わりを迎えず、ずっとずっといつまでも続いて欲しい。
だけど、それは有り得ない事。時という鎖に縛られた私達には不可能な願い。
この命に限りがある限り、『永遠』なんてものは訪れたりしない。
私が求めるもの。それは決して叶う事のない、叶う事の許されない夢物語なのだ。


そんな事はわかっている。
頭では充分理解している辛く哀しい現実。
わかっている。わかっているけど、それでも私は『今』が終わる事のない『不変』を求めてしまう。



















一日遅れのハッピーバースデー





















暗い夜道を歩く。
街灯と、僅かな月明かりだけが照らす薄暗い夜道。
周りの家には光はない。既に寝静まったのか、聞こえてくる音も虫の音のみ。
携帯のディスプレイを見ると、もう日付が変わってから大分経つ。
幾ら明日――既に今日だけど――が祝日でも、この時間に起きている人なんてそういない。
普段の私だって、こんな時間まで起きたりはしていない。
夜更かしはお肌の天敵だし、こんな時間まで起きていたら次の日の仕事が辛い。
何より、私が休む時はいつもあの子も一緒。甘えん坊で寂しがり屋なあの子と。
だから普段は日付が変わる前に休むようにしている。今日が例外――仕事が多かっただけだ。

私は地元にある会社でOLをしている。
高校を卒業後、大学へは進学しなかったのでもう2年目になるかな。
妹達や友達、先生には大学への進学を勧められたけど、私はそんな気になれなかった。
大学へ進学すればお金がかかる。幾ら充分過ぎる仕送りが送られているとはいえ、限りがある。
妹達はまだ学生。これから進学などでもっともっとお金がかかる。
その時の為に、少しでも貯蓄をしたかった。だから私は進学せず就職した。
自己満足かもしれないが、私自信の手で皆を育てかったのだ。でも――

「はぁ……その結果がコレか」

深く溜息をつく。
別に仕事で帰りが遅くなる事は稀にある。
帰りが遅くなって、皆と一緒に食事できなかったり、一緒にいる時間が減る事だってある。
だけどそれは仕方のない事。寂しい気持ちはあるけど、社会人になった時に既に覚悟している。
今の苦労や寂しさの先に待つものが、皆の幸せそうな笑顔があるのだと信じているから。
ただ、この日だけは――11月2日だけは残業なんてせずに、早く帰りたかった。
寧ろ今日位は溜めに溜まった有給を使ってやろうと考えた程だけど、
同じ位に溜めに溜まった仕事があったので泣く泣くその作戦は却下。
しかも溜まったのだって、先輩の所為だったりする。
その先輩には、後日たっぷりと“お礼”をして貰わないと気がすまない。

「はぁ……愚痴っても仕方ないかぁ」

愚痴ったところで、過ぎ去った時間は戻ったりしない。
もしそれだけで戻るのなら、私は喜んで愚痴を言い続けるだろう。先輩に対し。
時は戻ったりしない。どんなに願っても時の流れはゆっくりと、だけど残酷に過ぎていくのだ。
人が、この世の全ての生命が時という名の鎖に縛られている限り。
だから今の私に出来る事は、少しでも早く帰る事。帰って、あの子の傍にいる事だけなのだ。
私は少しでも早く帰る為、あの子の傍に帰る為、薄暗い闇の中を駆けた。





「ただいま」

十数分後、家に着く。
もう皆は休んでいるのか、私のその言葉に答えてくれる声はなかった。
仕方ないと理解しているとはいえ、やっぱり『ただいま』の後に何も返ってこないのは寂しい。
いつもは明るく温かなリビングも、この時はとても冷たく、とても寂しげだ。
テーブルの上にラップに包まれた夕飯と、皆の『お帰りなさい』というメモが、より寂しさを増す。

私は白雪ちゃんが用意してくれた夕飯をレンジで温めると、独りっきりの食事をした。
まだ学生だった頃には考えられなかった、寂しい食事。
昔は必ず皆で食事を取るようにしていたから、食卓に笑顔と温もりは絶える事がなかった。
今日一日何があったか。学校の事、部活の事、遊びの事、その他色々な事。
私達12人の姉妹の食卓は、そんなたわいのない、だけど愛おしい一時に満ちていた。

だけど今ではどうだろう。
私は独りっきりの寂しい食事を取っている。今日は特別な日にも関わらず。
普段は可憐ちゃんや白雪ちゃん、春歌ちゃんは遅くまで私の事を待ってくれているけど、
仕事で残業しないといけなくなった日は、事前に遅くなると伝えるようにしてある。
その電話をする時、いつも私の事を待ってくれている妹達に申し訳なく思う。
皆は私の事を慕ってくれている。私と過ごす一時を楽しんでくれている。
それなのに私は皆と一緒にいる時間を減らしてしまっている。皆の傍にいない時間の方が多い。
だから私は時折ココロが痛い。深い罪悪感に襲われてしまう。
特に今日は、あの子にとって特別な日だから尚更――――ココロガ痛イ。

「………ごめんね」

その言葉は誰に向けてだろう。
いつも遅くまで待たせている可憐や白雪ちゃん、それに他の妹達?
普段の私ならそうなのだけど、今日はだけは違う。たったひとりだけに対する言葉なのだ。





食事の後、私はシャワーを浴びた。
本当ならお風呂に入ってゆっくり疲れを取りたいけど、今日はそれ以上に疲労感が強い。
このままの状態でお風呂何かに入ったら、程よい温もりに誘われて眠ってしまう。
流石にお風呂に浸かったまま寝ると風邪を引くし、何より溺れる可能性だってある。
だから今日は手早くシャワーだけにし、明日の朝にでもゆっくり入ろうと思う。

「ふぅ。明日がお休みでよかった」

そんな独り言を呟きながら、部屋の扉を開ける。

「やぁ…………お帰り、咲耶くん」

同時に、私を迎える声が聞こえた。
正直、私は一瞬その声が何なのかわからなかった。
誰もいないはずの自分の部屋。しかももう夜も遅い時間だ。
そんな時間に、私に対し「お帰り」と言ってくれる人物なんて………。

私は声がした方へ視線を移した。
するとそこには、1つ下の妹である千影の姿があった。
千影はベット脇の椅子に腰掛け、薄っすらとした月明かりの下読書をしている。

「……どう、して?」

「私がこの部屋にいるか…………かい?」

千影は本を閉じると、私が問うとした言葉を口にした。

「勿論…………キミを待っていたからさ…………。
 帰りが遅くなり、疲れ果てた…………私達の愛しい姉であるキミを…………ね。
 他の皆も待っていたかったらしいが…………辞退して貰ったよ…………。
 夜更かしは身体に悪い…………。仕事で慣れている私は…………然程問題ないがね…………」

フフッと、いつもの笑みを浮かべる千影。
確かに夜更かしは身体に悪い。まだ皆は子供なのだから尚更だ。
対して千影は私と同じく社会人。しかも、小説家をやっているから締め切り前はいつも徹夜をしている。
夜更かしや徹夜は、私以上に慣れているのだ。あまり慣れて欲しくはないものだけど。

「そう。ありがとう。
 でもいいの? こんな所にいて。
 貴女がいないと、雛子ちゃんが寂しがるんじゃないの?」

雛子、というのは姉妹の中で一番下の子。
小学生で、まだまだ幼くとても甘えん坊な子で、千影の事を一番慕っている。
どこへ行くのでも千影の傍を離れようとせず、食事の席は隣だし、お風呂も一緒に入っている。
対する千影も、雛子ちゃんの事を可愛がっており、彼女を見守る千影からは優しさが感じられる。
いつも一緒な2人。当然、寝る時もいつも一緒で、いつも雛子ちゃんが眠るまでお話を聞かせている。
仕事が詰まって徹夜になる時でも、必ず雛子ちゃんにお話を聞かせて寝かせている程なのだ。
だけど、そんな幼い雛子ちゃんをひとり部屋に残し、千影は私を待つ為にここにいる。
今頃、例え眠っていても雛子ちゃんは寂しがっているのではないだろうか。
そして普段から雛子ちゃんに甘い千影が、彼女を置いて私を待っていた理由。それがあるのでは?
私はそう疑問に思い、千影に訊ねた。

「…………確かに雛子くんは寂しがっているよ。
 私だって…………正直に言って、キミより彼女の傍にいたい…………。
 でも…………仕方ないんだ。こうでもしないと…………この子がひとりでキミを待つ事になるからね」

「……え?」

部屋は電気をつけていない所為で薄暗い。
部屋を照らしているのは窓から入り込む、うっすらとした月明かりだけ。
最初、それは月が好きな千影がわざと電気をつけていないからかた思った。
だけど、それは違った。つけなかったのではない、“つけれなかった”のだ。
電気をつければ部屋が明るくなる。だけど明るくなれば、彼女の眠りを妨げてしまう。
そう。私のベッドの上で安らかな眠りについている――

「……亞里亞ちゃん?」

彼女――私の可愛い妹である亞里亞ちゃんの。

「…………今日、正確には昨日だが……………11月2日は彼女の誕生日だろ?」

どうして。
そう尋ねる前に千影は語り出した。

「当然、皆でお祝いする為…………料理やプレゼントも用意した…………。
 バースデーパーティーの準備は…………万全だった…………」

そう。11月2日は亞里亞ちゃんの誕生日。
そしてこれが、私が早く帰りたかった最大の理由。
私達は普段から両親がいない。普通の家庭では当たり前の事だけど、この家ではそうではない。
その事で皆は寂しいはず。だけど皆はいい子達だから、その寂しさを私に見せたりしない。
だから私は考えた。少しでもいいから、そういった寂しさを忘れられないかと。
そして考え付いたのが、何か特別な日――誕生日やクリスマスなど――には、必ずパーティーをする。
楽しいパーティーを開けば皆笑顔になり、寂しさを忘れる事が出来る。そう考えたのだ。
当然、11月2日は亞里亞ちゃんの誕生日。夕方からバースデーパーティーを開く予定だった。
だが。と、千影は続ける。

「…………キミの帰りが遅くなる。
 それを聞いた時…………亞里亞くんは酷く悲しんだ。そしてこう言ったんだ…………」


『姉やが帰るまで……亞里亞、待ってる』


その言葉を聞いた時、私は“やっぱり”と思った。
雛子ちゃんが千影の事を慕っているように、亞里亞ちゃんは私の事を慕ってくれている。
同時に、私は亞里亞ちゃんの事を大切に想い、可愛がっている。そう。千影のようにだ。
私は12人の姉妹の長女。皆の姉だから、妹達を平等に愛し可愛がっている。
だけど心のどこかで、亞里亞ちゃんだけ他の皆とは違う特別視している自分がいる。
皆は可愛い妹。それに嘘偽りはない。だけど私の中で一番なのは亞里亞ちゃんだった。

亞里亞ちゃんはとても寂しがり屋で甘えん坊。
私が傍にいないと、寂しさのあまり泣き出してしまう事もある。
だから、普段から少しでも多くの時間を一緒に過ごすようにしている。
仕事から帰って来た後の私の時間は、全て亞里亞ちゃんだけの為のもの。
どんなに遅くなっても、どんなに疲れていても、必ず亞里亞ちゃんと過ごすようにしている。
当然、お休みの日は一日中一緒だ。普段、あまり一緒にいれない分、たくさん甘えさせてあげる。
何をするのでも、私と亞里亞ちゃんは常に一緒なのだ。

だから、私が亞里亞ちゃんのバースデーパーティーに遅れる。
それが亞里亞ちゃんにとってどんなに悲しい事なのか、簡単に想像がつく。
私は亞里亞ちゃんにとって、最も大切な存在なんだと自信を持って言えるからだ。
そして、そんな私がいないのだから、亞里亞ちゃんがバースデーパーティーを止める事だって想像がつく。
亞里亞ちゃんの事だ、どんな事があっても私が帰ってくるまでパーティーをはじめないはずだ。
もしそうなれば、折角今日の日の為に準備してくれた他の皆の苦労が無駄になる。
だから11月2日だけは、どうしても早く帰りたかったのだ。

「…………仕方ないから、パーティーは3日にする事になったよ。
 その日なら…………祭日で、キミも仕事は休みなんだろ…………?」

「……えぇ」

「ただ…………その後は色々大変だったよ。
 亞里亞くんが…………キミが帰ってくるまで…………待つと言い出してね…………。
 咲耶くんの帰りはいつもより遅くなる…………だから先に休んだ方がいい…………。
 私達が、幾らそう言っても聞いてくれなくて…………最後には泣き出したんだ…………」

泣き出した。
千影のその言葉がズキリと心に響いた。

「それで仕方ないから、千影が一緒に待っててくれたのね」

「…………あぁ。
 キミが帰ってくるまで…………退屈だろうから…………本を読んであげてたんだ」

「そっか。ありがとう」

そう言って、私はベッドに腰掛けた。
私の目の前には、すやすやと可愛らしい寝息を立てている亞里亞ちゃんの姿がある。
その姿はとても幼く無防備で、まるで天使のように見える程可愛く愛おしい。
だけど、私はそんな亞里亞ちゃんにとても悲しく寂しい想いをさせてしまった。
皆の為を思ってしている仕事が、逆にこんな結果に繋げてしまったのだ。

「ごめんね……ごめんね、亞里亞ちゃん」

私は謝罪の言葉を口にしながら、亞里亞ちゃんの髪を優しく撫でる。
それが気持ちよかったのか、亞里亞ちゃんは「ねぇやぁ」なんて甘い寝言を口にした。
いつも亞里亞ちゃんにしてあげている行動。亞里亞ちゃんはいつものように気持ちよさそう。
だけど、私はいつものように優しい気持ちになれなかった。
何故なら、私の心の中に、後悔と亞里亞ちゃんへの申し訳なさの他に、ある1つの不安が生まれたからだ。

「………ねぇ、千影」

「…………ん? 何だい?」

「私って、いつまで皆と――亞里亞ちゃんと一緒にいられるのかな?
 今はこうして傍にいれるけど、いつか私だって結婚してこの家を出て行くのよね。
 それはまだ先の事なんだろうけど、いつそうなるかもわからない」

今の私は、特に誰かと付き合っている訳ではない。
せめて雛子ちゃんや亞里亞ちゃんが、精神的にも成長する高校生になるまでその気はない。
だけど、それは今の私の気持ちなだけで、将来的にどうなるかはわからない。
もしかしたら明日、運命的な出会いがあって、その人と恋に落ちるかもしれない。
未来の事はわからないのだ。その可能性だって、決してゼロではない。

「そしてもしそうなったら、きっと……いいえ、絶対今みたいに亞里亞ちゃんの傍にいる事は出来ない。
 こうして……亞里亞ちゃんの髪を撫でてあげる事も出来ない。
 私は………それが怖いの。いつか離れ離れになってしまう事が…………怖い」

私の不安。それは『今』が終わりを迎える事。
今の私は亞里亞ちゃんの傍にいる。いつも一緒で、それが当たり前になっている。
だけど今口にしたように、いつかは私もこの家から出て離れ離れになる時が訪れる。
それはまだ先の未来かもしれないけど、いつ訪れるかはわからない。
わからないけど、もしそれが訪れたたら、亞里亞ちゃんと一緒にいる『今』が終わりを迎えてしまう。
私はそれが最も不安で、最も怖い。だから、私は求めてしまうのだ。

「このまま………このまま、時が過ぎなければいいのに」

全ての『不変』を。
何も変わらず、何も新しい出来事は起こらない。
だけどその代わり、何も変化する事はない。それはイコール『今』のままであり続ける事。
どんなに時が流れても、どんなに日々を過ごそうとも、この愛おしい一時が終わりを迎える事はない。
決して終わりを迎えず、ずっとずっといつまでも続いて欲しい。
だけど、それは有り得ない事。時という鎖に縛られた私達には不可能な願い。
この命に限りがある限り、『永遠』なんてものは訪れたりしない。
私が求めるもの。それは決して叶う事のない、叶う事の許されない夢物語なのだ。
そんな事はわかっている。頭では充分理解している辛く哀しい現実。
わかっている。わかっているけど、それでも私は『今』が終わる事のない『不変』を求めてしまう。

心に生まれた不安を言葉にした私は、気づけば涙を流していた。

「…………咲耶くん…………確かに時の流れは残酷だ。
 楽しい事や幸せな一時…………それとは逆の悲しい事や辛い出来事…………。
 それら全てを分け隔てなく終わらせてしまう…………優しくもあり残酷なものだ…………。
 キミと同じように…………『不変』を望んだ者だって…………少なくはないだろう…………」

千影は泣いている私を後ろから抱き締めてくれた。
温かく優しく。千影の温もりと優しさはどこか懐かしいものがある。
そう。まだ子供頃、泣いている時にお母様に抱き締められた時のような安らいだ感覚。
とても懐かしいその心地よさに、私の心に生まれた不安が少しずつ薄らいでいった。
そして千影は、その優しく温かな口調で言葉を繋げた。

「…………だがね、咲耶くん。何も変わらない『不変』の世界…………。
 それは一見幸せそうに見えてしまうが…………実は最も辛い事なんだ…………。
 何て言ったって…………同じ事の繰り返しさ…………その内飽きてしまうよ…………」

「ぐすっ……わかってるわ。
 そんな事……わかってる。わかってるけど、私……亞里亞ちゃんと離れ離れになりたくないの!
 ずっとずっと、傍にいたいのッ。このまま一緒に、幸せに暮らしていたいのよッ!!!」

薄らいだ不安が再び溢れ、私は泣き叫んだ。
頭で理解していても、心から溢れ出す感情は抑え切れなかった。
いや。寧ろこの感情を抑える事なんて出来ない。亞里亞ちゃんに対する私の想いは、それ程強いのだ。
そして、その想いが強いからこそ、私は亞里亞ちゃんと離れ離れになってしまう未来を恐れているのだ。

「…………幸せに、か。
 咲耶くん…………日々の生活が楽しいと感じられる理由…………それは何だと思う?」

不意に、千影は泣いている私にそんな質問をしてきた。
突然の質問に、私は一瞬と惑った。だけど揺らいだ心を落ち着かせ考えた。

私が日々の生活が楽しいと感じられる理由。
それはやっぱり愛する家族――特に亞里亞ちゃんが傍にいてくれるからだと思う。
亞里亞ちゃんが傍にいてくれるからこそ、こうして毎日の辛い仕事にも耐える事が出来る。
そしてどんなに短い時間でも、亞里亞ちゃんと過ごせるから、毎日が楽しいのだ。
私は涙を拭きながら、千影にそう答えた。だけど、千影は「それもあるね」と言い、こう続けた。

「それは…………いつか終わりを迎えるという事を…………わかっているからだよ…………。
 終わりを迎えるからこそ…………そうなる瞬間まで精一杯楽しもうとする…………。
 だからこそ…………過ぎ去っていく日々が…………愛おしく幸せなんだ…………」

千影はそれまで抱き締めていた腕を放すと、
今度は私の目の前に腰掛け、まだ瞳から溢れている涙を優しく拭いてくれた。
人に涙を拭かれるのは少し恥ずかしかったけど、私は自然とそれを受け入れた。
今の私は普段の“皆の頼れる姉”ではなく、ひとりの弱い女性として千影に頼っているのだ。
どうやら、私にとって千影という存在は、唯一弱さを見せる事が出来る人物なのだと、改めて実感した。
そして涙を拭き終えた千影は、普段ではあまり見る事のない、優しい笑みを浮かべて言った。

「…………別に、過去の事や未来の事なんてどうでもいいじゃないか。
 それらに囚われていたままでは…………今を楽しむ事なんて出来ないよ…………。
 有限だが、私達には…………まだまだ時間はたくさんある…………。
 今を精一杯楽しんで…………少しでも多くの想い出を作るといいよ…………そう、亞里亞くんとね。
 そうすれば…………例え終わりを迎えても…………否。終わりを迎えるからこそ…………
 それらの想い出が…………大切な、掛け替えのない宝物になるんだよ…………」

そう言うと、千影は部屋を出て行った。
残された私の心はまだ少し不安が残っていたし、今が終わる事への恐怖もある。
そして、千影の言葉も充分理解している。今の私の心は様々な思いが混ざった複雑なものになっている。
だけど妙にすっきりした気持ちになっているから不思議だ。

「………今を精一杯楽しむ、か」

千影の言葉が心に残る。
私は過ぎ去った過去を悔やんだり、まだ訪れていない未来を不安に思っている。
だけど千影の言う通り、そんな負の感情に囚われていたままだと、楽しい事も楽しめなくなる。
自分だけが楽しめないのなら、それは自業自得だと言えるけど、一緒にいる亞里亞ちゃんはどうだろう。
考えるまでもない。そんな私と過ごしても、亞里亞ちゃんは楽しいと思えるはずがない。
楽しい事や幸せな事は、大切な人と一緒にいるからこそ、より輝いているのだから。

「亞里亞ちゃん、ごめんね。
 昨日は一緒にいられなくて寂しい想いをさせちゃったね。
 だから今日はその分、たくさん遊んで、たくさんの素敵な想い出を一緒に作ろうね」

そう。いつの日か離れ離れになった時の為に。
それはとても悲しくて寂しい事だけど、いつそうなっても後悔しない為にも。
今を精一杯楽しんで、いつかは終わってしまう、この掛け替えのない、愛おしい幸せな時間を大切に。

「おやすみ、亞里亞ちゃん。
 そして、一日遅れだけどハッピーバースデー」

私は、亞里亞ちゃんの身体を優しく包み込むと、一緒に夢の世界へと旅立った。



















END
























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